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「この子らは世の光なり」

伊藤隆二著「この子らは世の光なり」(樹心社刊 1988年)のあとがきに次のようなことが出ていた。

「しょうがいじ」がどのように世の中に位置づけられてきたかをみると、すくなくても4つの時代区分ができる。
 第1は「虐待の時代」この子らは「この世から追い出されるもの(イディオシー)」として「親子心中」や「子殺し」となって表れる。
 第2は「保護の時代」この子らは「遺棄するには忍びない」として食べ物や医療を与えるが、屋敷牢や座敷牢に閉じこめた。
 第3は「この子らに世の光を」の時代である。慈善の心から「この子らに愛の手を」と訴え、浄財によって保護の場を作ってそこに収容した。
 第4は「この子らを世の光に」これは「思想の革命」であるという。戦後最初の公立福祉施設「近江学園」をつくった糸賀一雄氏によって提唱された。
「この子らに世の光を」と「この子らを世の光に」とでは、単に助詞をいれかえただけなのに「本質的な違いがある」という。

 ところが伊藤隆二氏はこの表現でも満足しない。「この子らを世の光に」という言い方は、まだこの子らが「世の光である」ことを認めていない、そこで教育し、鍛え、磨きをかけてやっと「世の光」になると言うみかたである。この子らは主体ではなく、客体である。
 かれは「この子らは生まれながらにして世の光であり」「そのままで世の光である」という。だから「わたしたちこそが、この子らから教えられ、この子らに導かれなければならない」という意味で、「この子らは世の光なり」という表現が正しいという。
 「この世に光りを送り、何もかも明るく照らし、やすらぎとぬくもりと夢と希望を与えてくれるのはこの子らである。」という。

 前にも述べたことがあるが、イエスは山上の説教で「あなたがたは世の光、地の塩である」といわれた。これは「あなたがたは世の光、地の塩になりなさい」というのではない。「あなたがたは(そのままで)世の光、地の塩なのである」
 なにも「世の光」なのは「しょうがいじ」だけではない。私たちひとりひとりが(例外なく)みずから光を発する世の光なのである。
 これはすごいことだと思った。


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